箱崎八幡神社

御由緒

由緒・来歴

社殿  島津始祖、忠久公が鎌倉より山門院野田へ下向の途、 筑前博多の沖で逆風に遭い乗船まさに難破せんとした折、 筥崎宮に請願して難を免れ無事山門野院荘之浦に着船できたので、 当社を勧請し、野田、名古浦、六月田と遷り五百年余前、 この地を卜して当社を建立したという。

 また一説には、弘安四年(1281年)夏、蒙古の大軍押し寄せた時、 公命を受けて箱崎の津に出運していた島津久経公郷の二ヶ所に勧請し、 国境の守護軍神として崇敬せられた。

 然し、天正十五年(1587年)の豊臣秀吉の征西、 更に朝鮮の役には出水領主薩州家は断絶し、出水の地は没収せられて、 当社は別当寺の成願寺と共に破壊された。だが、慶長四年(1599年)、 朝鮮役の島津宗家義弘・家久親子の抜群の戦功により出水は再び島津家久公に 与えられた。翌年公は、自ら出水に入部し、僅かの間に荒廃した山河を見て、 まず当社と成願寺の復興を命じたのである。

 出水郷二代地頭椛山久高は慶長十四年(1609年)琉球攻めの主将を命ぜられ、 出陣に当たり戦勝を祈願し、目出度く任を果たした。

 こうして当社は薩州の宗社国境鎮護の神として歴代藩主の尊崇篤く、 大祭には必ず地頭が代参を勤めたのである。

 明治維新後は別当寺成願寺も廃寺となり神領も多くは上地となり 社殿も暫く腐朽したが、明治十五年(1882年)、 氏子相計り義金を以て社殿を造営した。 その後、明治・大正・昭和の約百年を経て再び改築の期を迎え、 昭和五十五年(1980年)、氏子有志の募金により新社殿の再興を見たのである。

 また、昭和天皇御在位十年の記念事業として、平成十年(1998年)十一月に日本一の大鈴 (高さ4メートル、直径3.4メートル、重さ5トン) 並びに神門が氏子崇敬者の奉賛金により竣功された。

 平成二十年(2008年)三月、今上陛下御即位二十年の奉祝事業として、 本殿移築改修及び新社務所が竣工され、現在に至る。